芋久保新田 芋窪新田

芋久保新田 芋窪新田

芋窪新田の成立と二・三の問題
 関 利雄 大和町史研究 第四号 p2

であって、立地条件の良否による設定ではなく、意識的に設定されたものとされている。林畑にはそうした設定意図があり、出百姓の再生産構造の上でも必要であったわけである。従って芋窪新田の如く、全体のうちの六軒のみが林畑を持つという限定された、林畑所有の不平等性はここでは重要な問題であろう。しかし林畑無所持者も、同様の意味をもつ野畑については、全名請人が所持しているので、芋窪新田では林畑所有の不平等が何故おこったかと検討したい。林畑については、検地帳の名請人の最初より五人までが所有し、一人おいて七人目が所有している。以後八人目からは全て無所持である。検地帳記載からみると、一軒の農民所有地が、地域的に一カ所へ集中しており、与五兵衛・平左衛門・武左衛門・三右衛門の四人のみが他地域をも「・ニカ所あり分散している程度である。このことは、芋窪新田開発当初の出百姓が 地域を中心に遠心的開発を実施し、入作者が次第に増加するとともに、後に入って来た出百姓は、最初入って来た出百姓の開拓地の外核を開発する形をとったからであろう。そうしたことが下畑・下々畑・屋敷地・野畑・林畑と つの地続きのプロッ、クとなり、名寄帳の示す如き形態となったと推察するわけである。これはあくまでも推察の域を出ないもので、後日実証の必要があるが、かかることから本稿では林畑所持出百姓は開発当初の農民とするのである。開発当初入作農民が八軒であったことはすでに述べたが、林畑所持の六名はその八軒に含まれた農晟で、あとの二軒は検地帳記載順にいって、平兵衛門、喜平次であろう。そのことは彼等二名が元文元年検地の案内人となっていることから、芋窪新田の草創人を意味
すると思う。検地案内人はその士地の内部状況を確実に把握していることが必要であった。そのことなしには検地役人をスムーズに案内出来得ないし、検地が容易でないからである。林畑所有の不平等は、新田開発の当初入作農民と、その期以降の出百姓との新田入作の時期という条件差によっておこったことであった。そこで、その不平等が新田出百姓の身分的不平等性どして土地所有面に影響することはないようである。第3表により検地帳名請人の所持高をみてみると、全名請人が一町歩以上の所持高を示し、地目別所持高については個人的差異がみられるが、一町歩以上で所持高は平均している。三町歩以上所持している農民は三軒、三町歩近い農民は一軒あるが、所持高の多い農民層は百姓身分による不平等からくるものではなく、個人的生産労働力の量的差による各農民所持高の差が生じたのであろ(晃。生産労働力が量的に他より多くなければ多くの開発が不可能であるし、所持高も多くする必要性がないわけである。芋窪新田初期の土地所有は、前記四名の農民をのぞき、ほぼ近似の所持高であることから林畑にみられた不平等性はなく、農民個々の労働力の量的差によってのみ所有高に着干の差異を生じたのだといえる。以上、元文元年の土地所有を検討してきたが、芋窪新田では農民個々の所有高については労働力の量に応じて土地所有の面積差がおこり、三.四軒の農民の所有高が多いことは、彼等の労働量の高さを意味し、その他の農民についてはほぼ類似の労働力量であったことが、平均化した土地所有となってあらわれたと思われる。しかし、内容的に検討すれば農民個々の土地所有が同一地域に集中して
居り、畑等位の面からみれば開発当初意識的に設定されたと思われる林畑を開発初期新田入作者のみが所有し、以後の出百姓は無所持の不平等がみられるに至った。ω前掲「新田村落」」四〇頁以降。②前同「新田村落」九八頁では「新田百姓の家族構成は、比較的少人数の三名前後からなる単婚小家族と推定される」と冒っていることから、芋窪新田においてもほぼ同様であったであろう。多くの新田出百姓のうちには、前記農民と異なり、五・六名以上の家族構成をもつものも存在したであろう。

5 芋窪新田の成長

 芋窪村の村請新田として芋窪新田は成立したが、元文元年検地に際しては独立行政村落として認められず、隣村中藤新田の支配村となった。こうして行政的にはまったく独立できなかつたが、生活機能面にあっては次第に中藤新田から離れて独立した村落を形成していたのであった。

 文政年間に芋窪新田の家数は二八軒に増加し生活集団としての結合が強化された。安政五年六月、芋窪新田は隣村中藤新田から離れて独立行政村落となるために訴訟を起した。 

 乍恐以書付御歎願申上候当御預所武州多摩郡芋窪新田小前村役人一同奉申上候当新田之義者江川太郎左衛門様御代官所同郡中藤新田同御支配二付名主役之儀者同新田名主弥}郎江相預ケ同人兼帯相勤罷在然ル処今般当御預所ヒ仰付奉畏候依而者当新田名主之儀別御支配中藤新田名主より兼帯二而者自然御用向御差支こも可相成者勿論諸事不弁利二而
難渋至極仕候故「同相談仕候処当新田江名主相立候ハ・御差支等者一切無御座諸事弁利宜敷奉存候依之右中藤新田名主弥一郎より兼帯之儀者相止メ今般当新田江人撰を以名主相立候様ヒ仰付度一同以連印を御歎願奉申上候尤当新田名主相立候上者万勤役之もの御上納向引負等出来候共小前之もの共引請騨も無御差支弁納可仕候問何卒以御慈悲右之御聞済ヒ成下置度奉願上候以上当御預所武州多摩郡芋久保新田
安政五午年六刀
細川越中守様御預所
百姓同同百姓代組頭
宇源忠弥栄右丘衛ハ門七蔵衛蔵

 問題は、芋窪新田が天領から細川越中守預所へ支配替になったことが発端である。芋窪新田の主張は支配替になった以上別の支配下にある中藤新田の名主役兼帯では御用向にも差支があるし、諸事に不都合であるから芋窪新田に名主を設立し、御用向一切を独自に行いたいというのである。

 単的にいえぱ芋窪新田を一独立行政村落として認可してほしいという歎願書である。しかも独立行政村落として認められれば御上納向の引負は小前のものが引請けるといった余裕をみせていることはみのがせない点である。

 要するにこの時期新田農民全体が生産力の上昇により農民の経営が安定したことを意味する。この事実なくして「無差支弁納可仕候」という農民層の意志が

浮びあがらないからである。

 芋窪新田が中藤新田からの独立を意図せしめたのは新田農民層の利益を左右する年貢問題があったからであろう。その後、同年十二月六日の取替議定をみると、

 為取替議定之事

一御検地帳井御割付御目録写扱人方ざ芋窪新田組頭方江相渡可申事一夏成御年貢組頭方二而取立兼帯名主弥一郎方江相納可申事一皆済御年貢之儀老名主宅江村役人立会勘定いたし兼帯名主江相納取立帳江印形致し置請取書納人江取置可申事一年三度御上納之儀者壱度替リニ組頭方二而相納可申事一宗門人別帳者名主方二而相認メ村役人立会調印可致事右者今般細川越中守様御預所ヒ仰付候二付書面之通取極メ向後不実意無之様双方共御用向差支不相成様取斗可申候為後日取替一札依而如件芋窪新田兼帯中藤新田
安政五午年十二月六口
名主弥一郎芋窪新田小前村役人惣代組頭宇右衛門百姓忠蔵蔵敷村名主扱人内野杢左衛門


 議定の内容大意は年貢上納と宗門改についての二点であるが、その前者の年貢上納に関するものが芋窪新田の農民側にとって第一義的な聞題点となっていることがわかる。

 要約すると第一に年貢上納にあたり基本的資料となる検地帳と割付・目録の写を芋窪新田組頭に渡すこと。
 第二に夏成御年貢は組頭が取立、兼帯名主へ納入する。
 第三は年貢皆済勘定は名主宅で村役人立会、取立帳に印形し請取書を取置くこと。
 第四は年に三度上納の場合、一度替りに組頭より納入するとなっている。

 この年貢上納に関する議定からみると、芋窪新田が中藤新田からある程度行政的な独立権を獲得し、組頭・村惣代の権限が強化されたことになる。芋窪新田の独立訴訟の結末が蔵敷村名主の仲介で、代官所までゆかず双方の示談で議定のような結果となったわけである。訴訟は内済したが、芋窪新田は結果的において、名目的な名主設立を果さなかったが組頭の行政権限の強化という実質的な面で、立場を有利にしたといえる。

 芋窪新田が安政五年におこした独立訴訟の意義は、本来村請新田であり独立集団としての意識が強かったにもかかわらず、当初、村落としての規摸が小さく、生産力の上昇も著しくなかったことが独立行政村落への気運を遅らしていた。そのことが組頭のもつ行政的権限を弱くし、全体的に行政に強く参与出来ず不利益な面が多かったのであろう。新田農民のそうした行政権限の弱少に対する不満が背景となり、安政五年の支配者交替の期に独立化の訴訟となり、結果は成功しなかったが、組頭の権限を強化し、芋窪新田の独立行政村落への足がかりを作った点で意義あるものであったと言える。①②大和町、内野家交書、里正日誌(安政五年)